コラム

2021/01/30

挑戦者たちのマイルストーン

こちらの記事では、タック株式会社で働く幹部9名に、それぞれの「挑戦」エピソードを語っていただきました。

 

30歳

第2事業本部 取締役 本部長
稲葉 誠司 

イビデン株式会社で使われている「生産管理、品質管理、調達計画」のシステム。

過去に何度も構想として立ち上がり消えていた、この大規模かつ複雑なシステム見直しを、構想・企画の段階から任されることになったのが30歳の時でした。

技術者として会社に、世の中に名を残したい。その思いで挑戦した私だけでなく、私に託す会社にとってもある意味挑戦だったんじゃないでしょうか。もちろん不安はありました。だけど自分ひとりじゃない、と知っていたから出来た。

同僚やお客様、上司との人間関係があったから大きな一歩を踏み出せたのです。多少の失敗は織り込み済み。失敗は反省し次に繋がれば良い。許容の大きいTAKは成長が感じられどんどんやる気が湧いてきます。

39歳

第1事業本部 取締役 副本部長
長屋 浩平

県立病院で初めて大規模プロジェクトのマネジメントを行った39歳の頃。

実はこの年は、何度も「辞めたい」と思った試練の年でもありました。プロジェクトマネジメントを学びたい一心で飛び込んだ大規模案件。未熟な私は意気込むあまり、生意気な発言を繰り返してしまい、完全に孤立してしまったのです。

このプロジェクトに私自身は大きく貢献できませんでしたが、私自身が学ぶところは非常に大きかった。それは失敗してもいいんだ、ということ。失敗から学ぶこと、その後の仕事に活かせることはたくさんあるんだということ。

「挑戦するぞ!」なんて、無理に意気込む必要もないと思っています。人は失敗を経て、成長します。成長したらいつか成功します。成功したらまた自然と、新たな挑戦がしたくなるものです。人は変化がないといきていけない生き物ですから。

50歳

第一事業本部 東京支店 支店長
大山 淳

「私にやらせてください!」健診・ドックのWeb集客事業に手を挙げたのは、私が50歳の頃です。

システムをパッケージ展開するのではなく、一社ずつ仕組みを作っていくのは、会社としても私にとっても初めての経験でしたので、まさに挑戦だったと言える思い出です。

残っているのは大変だった、というより楽しかった、という記憶。肩の力が抜けていましたから。当時の常務に「うまくいくかなんて、誰もわからないんだから笑!」と、言っていただけたのも大きいと思います。

その後、順風満帆とまではいきませんでしたが、新事業の走りとしての役割は果たせたのではないかと感じています。楽しむって大事ですよ。楽しくするのも苦しくするのも、意外と自分自身だったりしますから。

100

第1事業本部営業統括部 取締役 統括部長
山田 健之 

「本当にやるのか?」と自問したあの日の緊迫感は、今も鮮明に覚えています。

現在業界でトップシェアを誇る当社健診システムも、1990年代後半はまだ数十件程のユーザー数。

私が営業部へ電撃異動になったのも、この健診システムを全国展開するためでした。目標は100件。すべてが未知数過ぎて現社長に相談したところ「全国には47の都道府県がある。各地で2件ずつ商談を起せば100件近くの商談が可能だな!」との至極前向きな回答が。

その瞬間「やるしかない」と腹をくくった私は、ひたすら全国各地を行脚する毎日へ。訪問先はTAKのシステムを取り扱ってくださる業者様。

フェイス・トゥ・フェイスで話し合い、信頼できるパートナーを増やしていったのです。努力が実り、気づけば商談は1年で約35件に!

3年目には100件を超える商談がきまっていたのです。あの挑戦で得た経験、特に出逢った人々は本当に財産です。

三(産)

第1事業本部ヘルスケアソリューション事業部 副事業部長
田中 正広 

人を動かすのは「使命感」、そう思ったのは、約15年前のこと。

当社の命運を賭けた『岐阜県立三病院総合情報システム』の再構築プロジェクトでした。未経験の規模と金額。かつ社会的意義も高い。

任されたからやる、というレベルの責任感だけじゃ乗り越えられない、大きなプレッシャーに襲われました。

未知数の開発業務、各病院経営陣との折衝。当時まだ30代だった私には初めてづくし。常に緊張感と隣り合わせでしたが、仲間と汗をかきつつ、プロジェクトは無事稼働の日を迎えました。

あれから10年。50歳直前で自社製品『産婦人科電子カルテ』事業の立ち上げ責任者に。電子カルテメーカーとして市場に製品を投入したい、という思いは技術者として、TAKの一員として執念にも似た願いです。

10年前の“三病院”への挑戦が、“産病院”事業の誕生に繋がったんだと、確信しています。

2001年

第2事業本部ネットワークソリューション事業部 事業部長
林 克由

富士通のオフコン担当、親会社向けWindowsPC標準化、大規模グループウエアの導入と、社内では少し異質なキャリアを積んできました。

おかげでハードからソフト、ネットワークまで、幅広い領域に精通。その経験をかわれて、2001年から新設された統合ネットワーク部(今のネットワーク事業部の前身)への配属が急遽決定したのが、2000年末のことです。

翌年からは次々と海外工場のインフラを構築。様々な国を飛びまわり、1ヶ月半以上も現地で缶詰になりながら回線を開通したことも。「ネットワークの専門組織作るからよろしくな!」と、繁樹さん(現社長)から言われた時には正直、予想だにしてなかったハードワークでした(笑)。

あれから約20年経ったいま、事業部には41名が所属。

若手も多数活躍しているこの組織は紛れもなく、あの大抜擢と、私の小さな一歩から始まったもの。時折懐かしく、しみじみと振り返る思い出です。

ハンガリー

第1事業本部ビジネスソリューション事業部 副事業部長
糸田 新一 

生産管理システムを立ち上げるため、ハンガリーに飛んだのは当時33歳の時です。

しかし現地に到着してみると、なんとサーバールームはまだ整備前でコンクリート打ちっぱなし。机も椅子も無い状態。

SE業務の前に待ち受けていた予想外のタスクに唖然としました。しかし止まってはいられない。段ボールを机と椅子代わりに始まった、初の長期海外出張。

この経験で学んだのは、知らない領域への挑戦は大きな財産になるということでした。一度挑戦すれば、2回目以降は「乗り越えた自分」がスタンダードになる。未経験なことに対してハードルが下がる。

実は長期海外出張が決定した時、嬉しくはありませんでした。

でもあえて挑んだのは、知らない領域だったから。結果、自分の力になった。

皆がやらないこと、未知の領域に挑むこと、それはキャリア形成にとても有効じゃないかと自らの経験を通じて思います。

異動2年目

企画管理本部 本部長
内木 辰哉

本来は、心配性なのかもしれません。

健診事業部に移動して2年目だった34歳の頃。誰もが未知数だった大規模案件の稼働前日、怖くて眠れなかったこともありました。

だけど心配性だからこそ動けるのです。仲間のため、念には念を入れて準備し、与えられた責務をまっとうしたいから動く。

なぜならここには失敗を責めたり、責任逃がれしたり、ましてや頑張る人の足をひっぱる人はいないから。

そんな仲間と粘り強く挑んだその結果、得られるのは何にも代えがたい経験と人脈。

一筋縄ではいかない仕事ほど、お客様や仲間とのつながりは深くなる気がしてなりません。稼働後にお客様の保養所に招かれ、プロジェクトの関係者で宴会を楽しんだり、その際にお客様から「感謝状」を頂いたりしたことも。

仕事が繋いでくれる縁と、「ありがとう」の言葉が、会社人生における最高の宝です。

40歳

第1事業本部事業企画部 副部長
西山 義雄 

ワクワクしていました、プロジェクトが始まった時は。

岐阜県が既存情報システムの再開発を行うことになり、地元4社とコンソーシアムを組んで参画することになったのは、私が30代後半の頃です。

連日苦労して書きあげた提案書は、総額1億円。採択された時は、言葉にできない充実感でいっぱいでした。

しかし最終的には想定外の問題が発生し、大きな赤字とプロジェクトメンバーに過酷な負担を強いる結果に。その時私は40歳になっていました。

それでも当時の上司やコンソーシアムの上層部からいただいたのは、励ましの言葉。プロジェクトメンバーも最後まで率先して協力してくれました。

教わったのは失敗した金額より、挑戦する価値のほうが大きいということ。失敗を許容できる会社は社員を前向きにさせてくれると痛感しています。

(Report By 企画管理部)

コラム一覧へ戻る